権中納言の歴史語り

系図で見てみよう/天皇家・平安時代概略(後編)

歴史上の人物の系図をワタクシなりの解説付きでご紹介する「系図で見てみよう」シリーズ。

このページでは天皇家の系図の後編をご紹介。前回からの続きです。

天皇家略系図(平安〜鎌倉時代)
天皇家略系図(平安時代)

後冷泉天皇が皇子を生まないまま崩御。後三条天皇が即位します。

後三条天皇の母親は禎子(さだこ)内親王…三条天皇の皇女で、藤原氏の娘ではありません
それまで「娘を天皇に入内させて皇子を生ませて祖父(外戚)になる」方法で権威を維持してきた藤原摂関家は、外戚になることに失敗してしまったのでした。

外戚のしがらみから解放された後三条天皇は、中級貴族を登用して国政改革に取り組む精力的な天皇でした。

それゆえに玉座の上は窮屈だったのか、天皇がやらなくてはいけない任務から解放されるべく在位4年にして息子の白河天皇に譲位。
「上皇」として院政を行おうとしたのですが、間もなく崩御。
「院政のメリットを思いついた天皇」と言われる後三条天皇ですが、実は意外と院政を行ってないんですねー。

白河天皇からは、いよいよ大河ドラマ『平清盛』で描かれた時代に突入。

堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇と長きに渡って院政を敷いた白河天皇の権力の絶大ぶりは、「賀茂河の水、双六の賽、山法師」の三大不如意(思いのままにならないもの)でも有名。

この頃から「乱脈」なんて呼ばれた女性関係のふしだらさ、愛憎の強さで皇位・皇統をアレコレするだらしなさが続いて、崇徳天皇の周囲に不穏の火種がぼんぼん量産。やがて鳥羽天皇の崩御とともに「保元の乱」となって爆発してしまいます。

皇位は「王の器ではない」とまで言われた(そ、そんな ひどい…)後白河天皇の元に転がり込み、「保元の乱」で後白河サイドとして大活躍した平家がこの世の春を謳歌する時代がやってくるのでした。

白河天皇が即位した頃が、ちょうど東北で「後三年の役」があったあたり。

その前哨戦の「前九年の役」は、藤原氏が外戚になるのに失敗しつつある憂鬱な空気の中で起こっています。

後白河天皇は結構長生きした人で、息子の二条天皇への「中継ぎ」として即位し、譲位した後も院政を行いながら長く歴史に関わりました。

それは即ち「自分の直系はど・れ・に・し・よ・う・か・なー?」と皇位継承者を選ぶことで実権を握る「日本一の大天狗」の暗躍の時代。

お金持ち集団・平家は、清盛の義理の妹・滋子を後白河院(すでに譲位済みだったのに入内させるという…)に入内させて高倉天皇を生ませ、高倉天皇に娘の徳子を入内させて安徳天皇を生ませ、即位させて2代続けて外戚の地位を手に入れるという、摂関家の真似事をして権威をゲット。

当初はお金のない後白河院とお金持ちの平家とで、両者の仲は上手くいっていたのですが、滋子が早くに亡くなってしまうと関係は悪化。後白河院の院政を停止し、幽閉するという事態にまで発展してしまいます。

この後、高倉上皇の崩御によって後白河院が復帰し(他に院政を任せられる人物がいなかった…)、清盛の死によって重しが外れると、後白河院はもはや野に放たれた虎も同然。政敵に息を吹き返された挙句にぶっとい大黒柱を失った平家の運命は急速に転落。

後白河院が明確に反平家を志向するようになると、東国に雌伏していた源氏や平氏(平家以外の)が打倒平家の兵を上げ、平家は耐え切れずに都落ち源平合戦の火ぶたが切って落とされます。

それは、後鳥羽天皇が鎌倉幕府に敗れ去る「承久の乱」まで、朝廷と源氏との権力争いが繰り広げられることを意味するのでした。

平家が都落ちした際に、安徳天皇と三種の神器を持ち去ってしまったため、都には天皇がいなくなってしまいました。
そこで、後白河院は安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇を即位させます。

三種の神器なしの即位は、彼の権威と自信を大いに傷つけたと言われています。

ゆえに、源頼朝は「平家を滅ぼすのは後回し!三種の神器の奪還が最優先!」と厳命したにも関わらず、義経は「平家ぶっ潰す!」の一点張りで、壇ノ浦で神器ごと平家を海の底に沈めてしまいました(アッチャー)

「権威と自信を物的に取り戻せないのなら、自分の努力で回復するしかない」
後鳥羽天皇は結構ガンバったようで、文武・文化のどちらも他の追随を許さないほどの技量で才能を開花。異色の帝王へと変貌しました。

後白河院が崩御すると、院政を開始すべく息子に譲位して土御門天皇としますが、幕府と付き合っていかなければならない情勢の中、頼りなさを危惧して弟に譲位させて順徳天皇が即位。

鎌倉の三代将軍・源実朝と協調路線で全国統治を目指していた矢先、実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいました。

後鳥羽院は上手く路線変更することができず、鎌倉幕府(というか幕府の実力者の執権=北条得宗家)と対立するようになっていきます。

北条得宗家を討伐するために、順徳天皇が息子(仲恭天皇)に譲位したところで、計画が鎌倉幕府に見つかってしまいます。

北条得宗家は、単なる自分への討伐計画を「討幕計画」と読み替えて、東国武士団の不安と不満を煽ることに成功。

後鳥羽院は挙兵して「承久の乱」を起こすのですが、「いざ鎌倉!」が発動されて敗北。
後鳥羽院隠岐に、順徳院佐渡に配流。仲恭天皇は2か月ちょっとという歴代最短の在位期間で廃位となったのでした(当時4歳。幼児だし、鎌倉将軍の従兄弟でもあったので、許されると思っていた京の公家たちにも衝撃が走ったと言われています)。

この時、打倒鎌倉のために皇位から外され、挙兵計画にも反対していた土御門天皇は、自らの発案で土佐へ流罪。それでは気の毒だと鎌倉幕府も配慮したのか、土佐より手前の阿波に移され、それなりにいい待遇に置かれたようです。

反乱を起こした後鳥羽院の系統は外され、守貞親王(後鳥羽院の同母弟)の系統にあった後堀河天皇が即位。彼の母親(藤原陳子)は源頼朝の縁者だったので、鎌倉幕府にも都合がよかったと言われています。

しかし、後堀河天皇は若くして崩御。次いだ息子の四条天皇も事故で崩御。

守貞親王の系統が絶えたことで、「承久の乱」で中立の立場を取り自ら反省して配流された土御門天皇の息子・後嵯峨天皇が新たに即位することになったのでした。

この後嵯峨天皇が、息子を選り好みしたせいで「南北朝時代」の幕が開くのですが…それはまた別のお話。今回は以上これまでということで。

うーん、やっぱり天皇家の歴史を追いかけると、そのまま日本史のダイジェストになっちゃいますねぇ(^^;