権中納言の歴史語り

系図で見てみよう/天皇家・平安時代概略(前編)

歴史上の人物の系図をワタクシなりの解説付きでご紹介する「系図で見てみよう」シリーズ。このページでは天皇家の系図をご紹介します。

今回は、「平安京遷都(794年)」を行った第50代・桓武天皇の周辺から、鎌倉幕府vs朝廷の「承久の乱(1221年)」で敗北した第62第・後鳥羽天皇の周辺、後嵯峨天皇までを範囲としてみました。

ざっくり、平安時代の始まりから終わりまで…ということになります(私事ですが、自分は平安時代の終わりは「鎌倉幕府の発足」ではなく「承久の乱」だと思っております)

………が、やってみたらえらく長くなり過ぎまして(笑)、系図は1枚ですが解説は前編・後編に分けてご紹介しますね。

天皇家略系図(平安〜鎌倉時代)
天皇家略系図(平安時代)

平安時代の始まりを飾った桓武天皇は、実は天皇になれる可能性は低かったみたい。
母親が高野新笠という渡来系豪族出身の女性。いわゆる「卑母所生」だったのです。

しかし、出自のいい異母弟の他戸(おさべ)親王が、天皇呪詛の大逆のかどで母親(井上内親王)とともに失脚・暗殺されてしまったことで立太子・即位。この政争劇の裏には藤原式家(藤原宇合の系統)の暗躍があったと言われています。

自分が立身するのと引き換えに他戸親王が無念の死を遂げた…そんな地を避けたかった…のか?
即位した桓武天皇は長岡京への遷都を決行します。

ところが、桓武天皇の留守中に造営責任者・藤原種継(藤原式家)が暗殺される事件が勃発。
種継と仲が悪かった皇太弟・早良親王が黒幕と断じられ、廃太子されて淡路へ流罪になると、親王は無罪潔白を訴え、抗議のための絶食で配流中に薨去してしまいました。

造営中のいざこざで早良親王が無念の死を遂げた…そんな地を避けたかった…のか?
桓武天皇は、長岡京を諦めて平安京を造営・遷都。

弟2人の「無念の死の恨み」を背負いながら、1000年の都は後味が悪い中で始まったのでした…。

桓武天皇はとても子だくさんでしたが、自身の立太子に奔走してくれた藤原式家の娘との間に生まれた3人が皇位を継ぐことになりました。
平城天皇嵯峨天皇(母は乙牟漏)、淳和天皇(母は旅子)の三代に渡る御世までが藤原式家の天下でした。

兄の系統→弟の系統と皇位を交代で継承するのは、桓武天皇の意志だったと言われています。

しかし、「薬子の変」によって高岳(たかおか)親王が廃され、平城天皇の系統は皇位継承権を喪失。
嵯峨上皇の崩御後まもなく発生した「承和の変」によって恒貞(これさだ)親王が廃され、淳和天皇の系統は皇位継承権を喪失。
皇統は嵯峨−仁明天皇の系統に一本化され、以降「父→子」の皇位継承がスタンダードになっていきます。

そして、この過程で藤原式家は外戚の地位を失い、藤原北家(房前の系統)が外戚の地位をゲット。
藤原良房が人臣初の摂政となり、藤原基経が最初の関白となって、この家系は「摂関家」と呼ばれて天下を握ることになったのでした。

桓武天皇の息子・嵯峨天皇の頃に、最澄天台宗を開いたり、空海真言宗を開いたりしています。

この嵯峨天皇空海は、書道の達人を表す「三筆」としても知られています。もう1人の橘逸勢(たちばなの いつせ)は、もうすこし時代が下ったあたりの人物です。

また、清水寺の建立でも知られる征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)も、この時代の人です。

なお、皇位を継げなかった皇子の1人に、桓武平氏の祖となる葛原(かずわら)親王がおられます。彼のはるか子孫に、大河ドラマ『平清盛』の主人公がいるのですが、それは別の機会に。

嵯峨天皇の息子である仁明天皇から文徳清和天皇にかけての時代は、「六歌仙」が活躍した時代。

六歌仙というのは、和歌界の偉人・紀貫之(きのつらゆき)が選んだ6人の優れた和歌詠みの人たち。
在原業平小野小町僧正遍照文屋康秀喜撰法師は「百人一首」にも和歌が採られています。あと1人誰だったっけな(ぇ

陽成天皇は素行が悪かったと言われ、また時の権力者・藤原基経の意向によって(陽成の母=妹との仲の悪さが原因とか…ナンダカナー)、強引に譲位させられてしまいました。

新たな帝王は、光孝天皇。55歳の長老格が皇位についたのは、清和・陽成と2代にわたって幼帝を出した反省(反動?)だとも言われています。

光孝天皇は自分の子女をすべて臣籍降下させて皇位継承の根を断ったのですが、後継者を決めないまま病を得てしまい、結局、息子の1人・宇多天皇が皇位を継ぐことになりました。以降、光孝天皇の系統が皇統となり、元々の嫡流だった清和天皇の系統に皇位が戻ることはなかったのでした。

清和天皇の息子である貞純(さだずみ)親王の子孫が源氏の姓を賜って臣籍降下したのが、清和源氏のはじまり。
その子孫には大河ドラマ『平清盛』にも登場した清盛のライバル源義朝が(もちろん為義パパや息子の頼朝や鎮西八郎為朝らも)いるのですが、これもまた別の機会に。

なお、系図で見る清和天皇の周辺には、「百人一首」に和歌を採られた人が多くいらっしゃいます(息子・陽成天皇、孫・元良親王、そして息子から皇位を奪う形になった叔父の光孝天皇

宇多天皇の頃は、菅原道真が活躍した時代。

重用してくれた宇多天皇が譲位し、醍醐天皇の時代になると、時の左大臣・藤原時平にうとまれ、「醍醐天皇に代わって斉世親王(=道真の娘婿)を皇位につけようとした」と難癖をつけられて中央を追い出され、配流先の大宰府で薨去してしまいました。

この後、日本史上でも有名な(?)怨霊の祟りが都を席巻。左遷した当の時平を始めとして、醍醐天皇までもが犠牲になってしまいます(その後、地獄に落ちたなんて話も。聖王と讃えられた名君なんですが…)

その怨霊から守るため、大切に囲われて育てられたのが、朱雀天皇
その甲斐あってか、祟られて死ぬことはありませんでしたが、彼の治世では富士山が噴火したり、東国で平将門が叛乱を起こしたりと、平穏な時代とはなりませんでした。
気苦労が多く疲れたのか、朱雀天皇は弟の村上天皇に皇位を譲って、仁和寺に隠棲してしまいます。

村上天皇の息子・具平(もとひら)親王の子孫が臣籍降下したのが、村上源氏。これについても、また別の機会に。

宇多天皇の息子・敦実(あつざね)親王の子孫が臣籍降下したのが、宇多源氏。綾小路家、大原家などの諸家がここの系統ですが、戦国時代や室町時代が好きな人なら武家の佐々木氏六角氏のほうがお馴染みかもしれませんね(近江に根を張ったので「近江源氏」とも呼ばれます)。

なお、光孝天皇に譲位して皇統から外された陽成天皇は結構長生きをして、この宇多→醍醐→朱雀→村上の、光孝天皇の系統が皇位を継いでいくのを見届けていたようです。

一条天皇三条天皇の時代は、御堂関白・藤原道長がこの世の栄華を謳歌していた時代。

この時代は、紫式部清少納言らの、華やかなる王朝文化が花開いた時代です。

藤原道長は一条天皇三条天皇のほかに、後一条天皇後朱雀天皇の四代にわたって娘を入内させる前代未聞の試みに成功しました。すご過ぎですなー。

しかし、道長の息子・藤原頼通は、娘を入内させるものの皇子に恵まれませんでした。

後冷泉天皇が皇子を産むことなく崩御してしまったので、父が天皇・母が内親王という出自の、後三条天皇が即位。

藤原摂関家は「天皇の外戚」という関係を失い、絶頂期は終わりを告げるのでした。

摂関家を外戚としない後三条天皇の即位により、時代は「摂関家の時代」から「院政の時代」へ転換。

摂関家の命運は尽きてしまうのか…というと、そうでもなかったりするのは、戦国も幕末も摂関家が存在していたことでもご存じの通り。

ですが、今回は以上でおしまい。そのあたりの続きは後編のオタノシミということで。ではではー。